「回想・
田村正和伝説」 敷地1000坪邸宅の
坂本龍馬おやじ VS近所に居そうな西岡おっちゃんさんスゴイ人 名優・
佐分利信自ら格下アピール
2023年最初の記事、年始1回目にふさわしい人物
テレビドラマを代表する主演俳優の
田村正和からスタートです。
日本を代表する俳優に向き合うべき時と、強い気持ちに突き動かされて、独自な路線でドラマ史に迫ります。
姉妹ブログの内容ともつながりますが、
彼に向き合うことは、もっとも重要な我々の日本人や日本に向き合うことにもなる。
彼は運命や宿命ともいうべき、偉大な父と向き合いながら自分の道を模索し続けました。
彼も一人の人間であり、父や母、兄弟、子供、妻、友人、共演者、同僚、恩師がいた。
浮世の芸能だけでなく、プライベートの生き方の一部に、
われわれ一般庶民の人々の生き方や境遇へ、通じる何かが、あるのではないでしょうか
その何かのヒントにも迫ります。
前回記事
語る激レア動画「田村正和 ー49歳」”テレビドラマ史最大スタァ”のプライベートインタビューに迫る!!加藤剛 古谷一行 そして田村正和 テレビドラマを代表する俳優の長期題材比べ
令和に突入して、複数の作品を背負う負担の抱る主演のテレビドラマを代表する俳優たちが亡くなりました。
加藤剛、
古谷一行、そして
田村正和など
この3人、共通点がありまます。、3人とも長期の主演題材が20年を越しているテレビドラマを代表する俳優たちです。
田村正和、
加藤剛、
古谷一行のそれぞれがテレビドラマの主演で5題材を越す代表作がありますが、高視聴率の題材数の本数だと田村正和に及びません。その分長期物、
加藤剛は大岡越前(主演は36年)、
古谷一行は金田一耕助(28年)という25年以上演じた当たり役がありました、
田村正和 加藤剛 古谷一行田村正和だと眠狂四郎(1972~2018年、連続2クール後、1989年から2018年まで5本のSPドラマ化され、足かけ46年演じた)題材が、その長期物に該当します。
加藤剛は大岡越前は最盛期は軽く30パーセント越え、
古谷一行は金田一耕助は22時台で最高23パーセント越えのように、明確な記録の残る高視聴率は記録していません。ただ1972年の眠狂四郎はスマッシュヒットという言葉が残されています。
3名の長期題材の足掛けの主演年数
田村正和の眠狂四郎 46年
加藤剛の大岡越前 36年
古谷一行の金田一耕助 28年田村の眠狂四郎は年数では上回っていますが、視聴率では加藤剛の大岡越前や古谷一行の金田一耕助よりも下下回るという逆な現実、ですが年数長く演じることも選ばれた人間であり、ドラマ俳優の一つの評価です。
田村正和の眠狂四郎 加藤剛の大岡越前 古谷一行の金田一耕助 「田村正和 ー49歳」(番組名)の大まかなタイムスケジュールと解説1
独自な記事の路線として、「田村正和 ー49歳」(番組名)の大まかなタイムスケジュールと解説に着目し、今回から記事の部分的な展開としても展開していく予定です。予定上に深く膨大ななものになっていきそうです。
彼の存在がそれだけ、テレビドラマを代表するものであったわけで、時間をかけて展開していくやり方もあっても良いと判断しました。もしも動画が消えても残ります(それ以前に、このブログ自体が消えるかもしれませんが)
田村正和 49歳|プライベートインタビュー
この動画は計44分06秒(44.06)
ここから「田村正和 ー49歳」のスタートです。
音楽 オルゴールのような曲調
タイトルのテロップ 「田村正和 ー49歳」の表記
0.4(4秒) 女性「今日は田村さんまだ、お父さまのことを、こう、ご自分の呼び方でませんが、通常は?」
0.12(12秒付近) 田村「子供の時はおとうちゃんつってました」映像 座っている田村
女「あ、そうですか」
田「おとうちゃんっていってましたね」
<コメント> この女性はアナウンサーなのか不明、のちに判明するが、女性、判明までの以後は頭文字の女表記、田村は田などの表記 つってましたというのが特徴的です。聞こえ方のもよるかもしれませんが、個々の解釈のよるものになり得ます。
女「今は皆さんになんとおっしゃるんですか?」
0.19 田「おやじ?おやじとか、阪妻(バンツマ)さんとか、そういう言い方ですね」
映像 阪妻の写真
0.25
山寺宏一のナレーション(以後ナレ)「7歳役者になりたいと母親にいった
映像 田村正和(当時7才)とテロップとキャッチボールを受ける幼少期の映像
ナレ「父親は母親から伝え聞いた。
キャッチボールする少年時代の田村
ナレ「役者を次いでほしかった父親・阪東妻三郎」0.34 テロップ
阪東妻三郎(当時49才)
映像は阪妻
<コメント> インタビュー時の田村正和と同じ49歳の共通点
阪東妻三郎は1901年12月14日(明治34年)~1953年7月7日(昭和28年)、51歳で亡くなっているため、この映像は没年の2年付近前、運動していることから外があまり寒くなく、つまりは1951年の春ごろから秋ごろだと考えられます。期間としては49歳の1950年の12月14日~50歳前日の1951年の12月13日までの範囲です。
阪東妻三郎 山寺宏一
ナレ「大正から昭和にかけて日本映画に一時代を築いた大スター、住まいは京都嵯峨野、子供専用の運動場
、2面のテニスコート、敷地面積1000坪はいかにも大物役者を物語る」映像 お手伝いさんの3名が応援する姿
0.49 その役者の後を継ぐ男の子が3人生まれた。その一人を正和と命名した。
<コメント> 長男ののちの名優田村高廣の下に次男がいますが、会社員のためここでは含んでいないようです。現実に長男=田村高廣(俳優)、三男=田村正和(俳優)、四男=田村亮(俳優)、お笑い芸人のロンドンブーツの同姓同名とは別人)とあります。
田村高廣 田村亮 京都嵯峨野
0.58 「僕がこの仕事したいと、あの、親にいったのが、小学校、親父のいる頃ですからねえ、7つか8つくらいのときになりたいといったわけですぅ~」当時の記録映像から現代へ戻る
1.10
ナレ「数多くの阪妻映画を残してこの世を去った偉大な父・阪東妻三郎」映像
阪東妻三郎と右縦に大きめな赤いテロップと「
坂本龍馬」(昭和3年)監督
枝正義郎と表記
<コメント>
枝正義郎は阪妻プロで活動した時代劇映画の監督、監督としても代表作は複数ありますが、名匠には至りませんでした。技術者としては先駆者的な功績がある人物で、撮影技術を押し出した映画を撮影、または監督「したとされてます。ン円谷英二なども彼の後輩です。阪東妻三郎のとっても頼れる存在であったことは事実です。年齢も10歳近く上ですし、1910年代(1914年)から映画撮影の先輩、阪妻は1920年代(記録は1922年)からです。枝正のほうが阪東よりも8年近く長く映画に関係者しています。
坂本龍馬 阪妻プロ 沢村四郎五郎 円谷英二枝正義郎は、松竹映画最初の大スターとなる沢村四郎五郎(四郎五郎映画、功績の差は大きいが日活の尾上松之助のライバル的存在ともいわれた)のサイレント映画の撮影者として知られ、これを中心に100本以上の映画を撮影、監督としては30本強が確認できます。その後、阪妻プロへ、同プロの代表的な映画だと1927『護国の鬼』と、本映像でも登場の1928.『
坂本龍馬』を監督、同プロで撮影が中心になったことで大きな話題となった『霊の審判』の監督表記の予定でした。
護国の鬼 霊の審判.
坂本龍馬は、阪妻そのものが数多く演じた当たり役と縁がありませんでしたが、阪妻の上位の代表的な役柄の一つで、時代劇で最初に.
坂本龍馬を代表的な役にしています。
ナレ「その生きざまに男の美学を追い続けて42年、田村正和」テロップ 阪東妻三郎と左縦に大き目な赤い テロップ 子連れ狼 その小さき手に
<コメント>42年は年齢ではなく芸歴です。一瞬間違えているのかと思わせ、少しややこしいいナレーション文章に思えます。
1.22
ナレ「父の亡くなった年まであと2年」映像 「雄呂血」(大正14年)監督 二川文太郎
<コメント>サイレント映画時代劇の最盛期に活躍した二川文太郎、現存含むと90本を越す監督作の名匠、七剣聖の7番目に数えられる月形龍之介の初期の主演代表作「修羅八荒」の第一篇~第三篇(1926)と「悪魔の星の下に」(1927)やアクション俳優の先駆的存在の高木新平の「快傑鷹(1924)」、マキノプロを代表したスター南光明の「荒木又右衛門」の全五篇(1929)なども手掛けています。
そして映像は日本の個性、剣劇映画の名作の「雄呂血」です。
二川文太郎 七剣聖 月形龍之介 修羅八荒 悪魔の星の下に アクション俳優の先駆的存在 高木新平 快傑鷹(1924) 南光明 荒木又右衛門 雄呂血1.32
ナレ「田村正和、13年ぶりの映画で剣を手にした」映像と曲 「華のとき 田村正和」と縦テロップ
<コメント> サブタイトルです。
華のとき 田村正和1.42 田村「家も大きかったですからねえ、遊ぶ場所も広かったし、遊ぶ場所もいっぱいありましたからねえ、近所の子供たちが遊びに来て、それからテニスコートがありましたから、そのテニスコートであの、1年に1回、親父が近所の子供たちを集めて運動会をやってねえ」 女性「うーん」 田「その子供たちに賞品を渡してる写真なんてありますけどもねえ」右側は田村の顔の引きと左はアップ
女「でなにか、ご自分のお部屋に、お父さんのお写真が飾ってあるとい伺ったことがあるんですが、今もなんですか」 田「あります
テロップ 聞き手 残間里江子
<コメント>ここでようやく女性の正体が判明、残間里江子は静岡放送のアナウンサーを経て、編集長、プロデューサー業など、取締役など多くの役職を経験している人物、現在もラジオ番組に多く出演中
残間里江子2.15 音楽 ボンボンボンボンという英語曲 田村の多くの写真が素早く描写
テロップ 平成5年1月8日
ナレ「田村正和が13年ぶりに選んだ時代劇jは父と子の絆を描いた子連れ狼 その小さき手に映画の中で父、拝一刀を演じる田村正和も父親には厳しく育てられた」<コメント>テレビドラマ含めると時代劇が13年ぶりではなく、映画との時代劇が13年ぶりという意味、田村本人としては1979.年の東映映画『日本の黒幕』以来の出演映画、数え年としては14年ぶり、
佐分利信(松竹映画のスター主演俳優や映画監督としても活躍した)が主演、田村は主要ではあるが、2番手の役柄です。ちなみに田村の映画出演は確認できるものは42本、主演は10本です。残念ながらテレビドラマを代表するスターですが、映画スターとしては活躍できませんでした。
日本の黒幕 佐分利信13年前の出演映画「日本の黒幕」 戦前からの名優・佐分利信と千恵蔵の驚愕の格差エピソード 田村が2番手出演
『日本の黒幕』は、高倉健と40年を越す長期コンビの降籏康男が監督、「東映レジェンドトーク」というインタビュー番組の中で、中島貞夫(2022年時点存命、東映系の最高齢映画監督)は、この映画の主演の
佐分利信は、この映画と近い時期に公開された同東映映画『日本の首領 完結篇』の撮影時のことを話しています。
この映画、田村とテレビドラマで共演歴のある片岡千恵蔵と、松竹男性俳優上位の功績を残した
佐分利信(戦前から戦後にかけて松竹映画中心に活躍、晩年に東映で4本に主演、通算の代表的主演映画は30本近く)共演、
なんと佐分利は、共演の片岡千恵蔵に挨拶のため、自ら頭を下げにいったことに大きな衝撃を受けたと話しています。はっきり書きますと、あの松竹を代表する映画俳優の佐分利信も、千恵蔵よりも格下なんだと実感した瞬間です。
マスコミが無視する芸能界の現実を知ってしまったわけです。
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中島貞夫はこの時、片岡千恵蔵の戦前からの膨大な功績を理解しておらず、東映を大物だとは知っていたものの、本当に物の凄い存在なんだと痛感したと話しています。
千恵蔵は”御大”といわれていたものの、東映側が若手にその功績を伝えていなかったことも大きな問題、中島はその後、大阪芸術大学の関係者としても、千恵蔵の功績を調べ、比較的理解があるようで、インタビューでは高く評価していました。
この映画共演前の過去に佐分利信は、東映(取締役兼主演俳優時代の千恵蔵に)自分の映画(佐分利の監督作)を売り込んだ立場でした東映で配給した独立系作品が、キネマ旬報ベストテン入りをしています。また東映で千恵蔵主演(飛車角役)の人生劇場題材の大作「人生劇場 第二部 残侠風雲篇」(1953年公開)を監督、多くの面jから恩人の一人といえる背景があり、また、純粋に芸歴や多くの功績の数字も、千恵蔵のほうが数段も格上なわけですが、それだけではありません。
人生劇場 第二部 残侠風雲篇雇う側の元取締役の重役(東映二代目社長の岡田茂就任後の千恵蔵は、高齢化や健康への配慮もあり、比較的気軽な重役の専務兼俳優だった)兼映画俳優・千恵蔵と、雇われた俳優・佐分利、実に大きな差があり、これも自分から挨拶に行く大きな理由となっています。
田村正和はその佐分利主演の東映映画『日本の黒幕』(黒幕はフィクサー読み)に2番手、若手のトップで出演し。この映画以降は映画と距離を置いて、上記の子連れ狼の主演で13年ぶりの出演を果たしています。
日本の黒幕 佐分利信 片岡千恵蔵 降籏康男 中島貞夫 取締役兼主演俳優 高倉健 キネマ旬報ベストテン 東映レジェンドトーク 大阪芸術大学車から降りてくる眼鏡の田村
テロップ ナレーター
山寺宏一2.37 ナレ「気軽に話をすることもなければ、毎日の食事も別々、日ごろは何もしてくれない父だったという。しかし、田村正和が映画で演じてみたかった父は阪妻さんから教わった厳しい父親像」テロップ 松竹謝恩パーティ
出演者の舞台挨拶のインタビューの映像は無音
2.53 テロップ 原田芳雄
サングラスの原田と向き合う田村
田村「またご一緒したいです」 原田「またより惜しくお願いします。どうも」
田村「ずーっと、付き合う、これからよろしく」 髪をかき上げながらいう
<コメント>音声が悪いわけですが、上記ののように二人のやりとりは聞こえました。
山寺宏一 原田芳雄 松竹謝恩パーティ対西岡善信戦1 思い出を饒舌な口調でペラペラ語る意外な田村に押され気味の西岡
3.10 ナレ「京都、田村正和はこの街で生まれ、阪妻さんとは9年間過ごした」テロップ 京都
曲 英語の歌
映像 屋敷に歩く眼鏡の田村の描写
ナレ「まさちゃんと呼ばれ、近所の子供たちを誘っては砂遊びなどをした当時の阪妻邸は今も残っている。現在、この家の持ち主は阪妻映画王将で美術助手を務めていた西岡さん。偶然にも今回の田村正和映画の指揮をとっていた」<コメント>2010年代以降の晩年の映像を多く観ているためか、西岡は若く感じられる。
3.33 西岡「いやーねーだいぶ長い間ねートイレの花瓶ねー」 田村「あははは~」 西「鉛筆でねーみんなねー、3人とも、がー上手く描いてあったんでねー残しておこうか、だいぶ長く残しておいたんやけど」 田「サインの練習していたんです」 顔を見合わせる 西岡「そやんんんー」テロップ 映像京都社長
西岡善信
3.49 田「にわとりなん描いてね」 西「そ、そそそそ」 田「それでちょっと、しーそーとか、ぎったんばっこの」 西「はたんばんみたいなもんがね」 田「そういうのがあってね」カメラが切り替わる
田「けっこう、ここは我々子供とかおふくろさんたちが一番たむろしていたとか」 西「ああここねーそうですよねー」 田「ここに台所とかがあって、ここでねー」 西「あーだいどころ」 田「親父はずっと奥のほうにいたから」 西「そうですよね、たまにしかな」 田「えー、たしばなじゅんやんがこのへんにね、ここでねてたんじゃないかしら?こっちの部屋で」
西「こっちの部屋でね。この辺は全部そのままですよ」田「ほとんど」 西「ほとんどそのまま 田「太鼓橋があったでしょ」西「ええありました。ありました」 田「太鼓橋があってぞーとあの池があって」 西「池があって?」 田「おやじはそこで釣りしてたの覚えています」 西「えそうですかー」 田「鯉とか亀とか、僕たちもあの、ザリガニ?」 西「えーえー」<コメント>思い出を饒舌な口調でペラペラ語る意外な田村に押され気味の西岡、このように感じられました。意外な一面といえます。
西岡善信 映像京都社長 映像京都田村VS近所に居そうなおっちゃんはすごい人 映画美術の巨人・西岡善信
最盛期は大映映画の美術を牽引、日本映画最盛期から大映後の低迷期にかけて映画150本以上に参加、大映倒産後、独立系でも活躍し、1970年代後半から1970年代後半から東映や松竹中心に名作や秀作を多数手掛け、これは日本のテレビドラマへも大きな影響があります。
いわゆる比較的低レベルのリアルさ追求型の美術だけでなく、虚構も含んだ映像作品として美術を作り込む概念へ貢献、現在の文芸系のスペシャルドラマ、大河ドラマなどの繊細な美術にも多くな影響があるといえます。このおじさんすごい人 代表的な参加映画は50本越します。
シネマの画帖―映画美術監督
西岡善信の仕事と人々 大型本 –


彼は簡単なところでも(公開順)「残菊物語」、「祇園の姉妹」、「炎上」、「切られ与三郎」、「悪名シリーズ」、「雪之丞変化」、「座頭市シリーズ」、「華岡青洲の妻」、「股旅」、「瀬戸内少年野球団」、「極道の妻たち」(記念すべき1本目)、「吉原炎上」 、「肉体の門」、「利休」、「忠臣蔵外伝 四谷怪談」、「どら平太」などが上位の代表的作品です。時代劇から現代劇の娯楽と受賞系、文芸からスター物、女性物、シリーズ物まで多彩、まさに映画美術の巨人・
西岡善信、晩年は高齢化などから急激に本数を落としましたが、50年近く活躍しました。
ちなみに王将(1948)は、彼が
角井平吉(1930年代の日活、大映や東映で活躍した映画美術系の先駆者の一人)の美術助手時代の代表的作品です。西岡を輩出したことも評価ですが、本数は80本ほどですが、半数が代表的映画、高い的中率を誇りました。西岡の高い的中率は、実は、師匠譲りです。
角井平吉は、戦前から戦後の最盛期にかけて娯楽映画中心に活躍、特に代表的なものの上位は、千恵蔵映画20本以上(特に「忠臣蔵物」、「宮本武蔵」、「次郎長物」、「多羅尾伴内シリーズ」、「金田一耕助シリーズ」)や阪妻映画10本以上(特に江戸最後の日、富士に立つ影、狼火は上海に揚る、素浪人罷通る、王将、大江戸五人男)の娯楽中心に名作を手掛けています。
なんと千恵蔵映画の上記表記の代表作だけでも、観客動員は軽く1億5千万人越え、現在のお金でいうと数千億円を越す興行収入を記録、本数以上に日本の映像史に貢献度の大きい人物です。
角井平吉も今後、再評価されるべき人物です。
テレビと関係ないとい方が居るかもしれませんが、映画美術はそのままテレビドラマの美術へつながっています。先人からの技術や日本独自なシステム、個性の魅力も引き継がれています。
角井平吉こjこは膨大なので作品のリンクは控えます。
対西岡善信戦2 思い出を饒舌な口調でペラペラ語る意外な田村に押され気味の西岡
田「あの頃はエビガニっていってましたけど、あれをカエルの皮をむいてね、西「あー」田「それを釣るしたらね、岩の向こうから出てくるわけですよ」西「んー」田「挟んだところこう持ち上げてね、そういう遊びしてましたよ」 西岡「なるほど」<コメント>威勢の良い職人のような口調に個人的には思える西岡と眼鏡の田村、たしばなじゅんやん?聞き取れずそのまま表記
4.51 田「知ってます?」 西「ええーけど」 田「要するにまきがみにね」 西「え」 田「台本一冊、壺を書いて、事務所にずーっと張って 西「そーそーそ」 田「そのあと大きな声であーいって台詞の練習しているの、覚えてます」個人撮影による戦前の阪妻の煙草を吸う映像が流れる
西「あそうーでしょねー、えーあのーなんかね、いや今は練習中やからいくないくなってね、スタッフルームの入り口で」 田「あはは」 西「ちょっとまってくださいみたいにね、いってましたよ」
5.17 田「あれあってなんかうれしかったですね、あの縁があって、とまってる写真は」 西「そうですよねー」 「たくさんあるんですけどね」 西「覚えているのはね」 田「覚えているってえのはね」
田「好きな作品は王将、無法松?」 西「んー」 田「時代劇じゃなくて?」 田「僕もその親父の死んだ年になりますよ」 西「そうでっか~」笑顔の田村
5.41 テロップ 「王将」(昭和23年) 監督 伊藤大輔
<コメント>劇中で阪妻が「おぶさるぞ」?といった瞬間、突然、映像が飛ぶ、録画やまたはビデオテープの状態に問題があっようだ。また、時代劇の父・伊藤大輔、時代劇のイメージも強いものですが、現代劇系でも代表作がありますし、脚本家のみの映画関与としても活躍、現代劇系作品の監督作として『王将(1948)』は代表作です。
伊藤大輔 王将撮影中はお腹の中か 田村正和が阪妻の子として生まれた1943年に公開された『無法松の一生』 稲垣浩が大きな恩人
田村正和が阪妻の子として生まれた1943年に公開された『無法松の一生』
1943年8月1日生まれの正和、映画無法松は1043年10月28日に公開、撮影中は母親のお腹の中だったと思われます。こう考えると考え深さが高まります。
上記の西岡に対し、田「好きな作品は王将、無法松?」から、『無法松の一生』の重要性にも迫ります。田村正和のテレビドラマは販売作品が少ない理由もあります。
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田村正和のルーツを探ることもできる父・阪妻映画の戦中の名作1943年の『無法松の一生』、すでに巨匠級の稲垣浩は1920年代後半から片岡千恵蔵と50本を越す日本映画史を代表する黄金コンビや、大河内傅次郎の日活映画への出向作品で複数の成功を記録、
この流れを背負い、1930年代後半から日活時代の千恵蔵の「宮本武蔵シリーズ」と交互に阪妻とのコンビでも成功、日活を経た大映時代の上位作品の一つです。その後、阪妻は1953年に51歳で亡くなり、その後の稲垣は東宝中心に三船敏郎とのコンビでも複数の成功を重ねていきます。
稲垣浩 阪妻映画 無法松の一生 大河内傅次郎 三船敏郎稲垣監督は、サイレント映画以降は人気が低迷していた阪妻を1941年『江戸最後の日』(時代劇)で大きく再評価させ、その勢いを『無法松の一生』(現代劇)につなげることに大成功しました。低迷といってもサイレント映画以後から『江戸最後の日』の間も代表作は多くあります。千恵蔵も同様ですが、代表作を積み続ける粘り強さが歴代上位俳優である理由の一つです。
江戸最後の日戦後の晩年は特に巨匠・伊藤大輔と10本以下のコンビながら、ヒューマニズムと将棋題材の名作『王将(1948)』や旗本奴町奴の任侠物時代劇の大ヒット作の1951『大江戸五人男』など成功します。
戦中の日本映画は公開本数が国によって大規模に制限され、戦争前の1940年は軽く500本の日本映画が、『無法松の一生』の公開した戦中1943年は100本ほどに減少、実に5分の1ほどに大打撃、戦中の映画製作の新作公開が困難な時期も重なって、それまでに前例の少ない半年を越すロングランとなって、軽く250万人を越す大ヒットの観客動員を記録しました。現在でいう軽く500万人以上に該当する数字です。
伊藤大輔 王将(1948) 大江戸五人男あえて問題書くと現在の日本映画とも通じ、配給を含む大手系の年間公開本数が少ないため、上位のヒット作品(現在だとファンが強く、映画興行の年間上位に含まれやすいアニメ映画作品と通じる)になってしまえば、さらに数字が伸びやすい傾向が強くありました。
どんな宝石の原石も放置されても輝かない。宝石の原石は磨かれてこそーー
後期の阪妻は稲垣浩が恩人ともいえる部分がありました。千恵蔵や美空ひばりも同様、いくら大スターでも、それを活かすための人物たちが求められます。そして、阪妻の息子の田村正和も同様でした。
どんな宝石の原石も放置されても輝かない。宝石の原石は磨かれて、宝石として強く輝き出します。
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