テレビVS映画の図式が招いた悲劇の始まりかつて『柔』、『続柔』、『柔道水滸伝』、『姿三四郎」などの柔道を題材としたテレビドラマが1960年代から1970年代の前半を中心に存在していました。映画界の巨匠・
渡辺邦男がテレビドラマで監督や監修で制作へ参加した作品たちです。
渡辺邦男がテレにドラマに進出した理由には”やむを得ない”部分が存在していました。
1960年代はテレビドラマの形成に大きな役割を成した時期でした。テレビドラマ自体は1950年代からも作られていましたが、1960年代の中盤くらいまでは映画に劣る分野という認識が大きかったと多くの映画関係者の証言から判断できます。そのため映画関係者から敬遠させていました。また、石原裕次郎は1970年代の前半の『太陽にほえろ!』に出演するまでは、テレビドラマが”やりたいことができる場”だとは考えていなかったといいます。
テレビVS映画という図式が1960年代には当然のように展開されていました。現代のテレビと映画はWin-Winの関係として定着していますが、当時はまだ互いが客を取り合うためのライバル的な存在が強かったのです。東映も他の映画会社と同時期に映画の観客動員や興行収入の低迷を打開するためにテレビ製作を本格的にさせました。東映はいち早く1960年からの児童向け時代劇『
風小僧』や1961年からの刑事もの『
特別機動捜査隊』などのテレビドラマを制作していましたが、映画で大きな実積を残した俳優や監督などのテレビ進出は少数でした。
*Win-Winの関係=互いに弱いところを補って良い結果や勝ちが得られる円滑な関係
4大巨匠へ襲い掛かるテレビドラマの荒波と嵐1960年代の中盤になると東映映画で80作近い主演数を誇る大スターの
大川橋蔵が本格的にテレビドラマへの進出を果たしました。このテレビ時代劇『
銭形平次』(1966~1984)は全般的に若いスタッフが中心でしたが、時折は巨匠・
佐々木康(ささきやすし)などの大ベテランも参加していました。このように映画の巨匠がテレビドラマに参加した経緯には、テレビドラマの製作に乗り出した映画会社や監督たちの苦渋の決断がありました。
1965年からの東映のテレビドラマ製作の本格的な始動は、映画の巨匠たちにある決断を迫りました。
4名共が160作以上~270作の映画監督本数、映画の代表作が50作以上のマキノ雅弘、佐々木康、松田定次、渡辺邦男は東映の事実上の4大巨匠でした。
*ほかにも内田吐夢(うちだとむ)や田坂具隆(たさかともたか)などの監督も巨匠がいましたが、この記事では上記の4名を4大巨匠として進行します。アットワンダー
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佐々木康がのちに参加するテレビドラマ『
銭形平次』の映画の情報が満載、レアものです。
橋蔵(
大川橋蔵)、1960年代に青春スターとして人気を博した舟木(
舟木一夫)の初顔合わせが目を引きます。
4大巨匠の明日の行方はどっちだ!マキノ雅弘は
高倉健の『日本侠客伝』シリーズ(1964~)の200万人ほどのヒットなどによって、かろうじて監督として東映で映画を撮ることを許されました。1960年代になると観客動員とヒット作が減っていた
佐々木康は東映のテレビドラマの製作への道を求められ、承諾したことで東映に残りました。一方、
1950年代から1960年代にかけて1000万人ヒットを7作(日本歴代1位)も放った大巨匠の松田定次は、東映側と契約などのさまざまなことで揉めたと考えられますが、東映を離れて、最終的には外部の松竹などのドラマ制作の道へ向かうことになりました。
松田定次も
佐々木康と同様に東映のテレドラマ制作を打診されていたのかもしれません。そして
渡辺邦男の行方です。つづく
裏通りリンク⇒
裏通り『4大巨匠へ襲い掛かるテレビドラマの荒波と砂嵐』たった1年2年が運命を左右
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